小山田壮平の狂気的ワードセンス
andymoriって知ってます?
マジでやべぇバンドなんですけど、マジでやべぇんですよ。
なにがヤバいかっていうと、歌詞がヤバい。アツい。
語彙力とかまじで無いからヤバいしか言えないけどまじでエグい。てか語彙力無くてもあっても「ヤバい」で完結するむごさ。
でもまあ強いて言い換えるなら
「狂気的」
狂気的過ぎて当時高校生の自分には刺激が強すぎた。
ちなみにアイデンティティを形成する多感な時期である思春期にandymoriの歌は聞かんほうがいいですよ?
今騒がれてる米津さんなんか比にならん。小山田君の書く歌詞は狂気的であり凶器的。
かつて感じた事のないエモーショナルを心の内から引きずり出されエモいを通り越してパニック。エモくてパニックだからエモパニック。
そんなエモパニックな小山田先生の歌詞をいくつか紹介してあなたと是非共有したいんですけどいいですか?いきますね?
楽園
この曲は非常にシンプルで、サビの部分にあたると
「潜って潜って潜って潜って潜って潜ってランランラン♪南へ南へ南へ南へ行く旅だよ♪」
と、軽快なリズムとキャッチーなメロディーで同じ言葉を繰り返してくれるため非常に耳になじみやすい。
しかしこの曲は終始軽快なリズムなんだけども、どこか切なさを思わせるサウンドを含んでいて、ボーカルの小山田壮平君の少しハスキーで寂しげな歌声がその音にマッチする。
また、南へ行くことが曲名の「楽園」につながるというロマンチズムを感じさせてくれる。
ただ驚くべきはこのあと。
力の無い愛する人の言葉を聞くたびに、俺はね、死ねるよって思うのさ
楽園 - anymori
い、いきなりどうした。
じ、じ、慈悲深い....慈悲深過ぎる。
慈悲深いという言葉に頼らせてもらうけどすごく慈悲深い。
てか、愛しすぎ。愛しすぎて狂気を感じる。
愛してる人の元気のない姿を見て死ねるよって思えるって、すっごく愛さないと思えないから。
そして矢継ぎ早にこう続く。
声を枯らして歌ったあの日の空の下で、俺はね、死ねるよって思うのさ。
楽園 - anymori
ま、まじか~~~~。また死ねるよって思うのか~~~~~。
個人的に、声を枯らして歌ったってことはきっと大人数じゃないかなって予想するんです。一人で熱唱するのもまああり得るんだけど、ここは大人数じゃないかなって。ってなるとそれって仲間だよね。仲間大勢でカントリー調の歌うたってんじゃないかなってなるよね。また、空の下ってことは青空なんじゃないかなって思うんだよね。つまりそれって青春だよね。
結論、青春を謳歌した仲間に向けた歌なんじゃないかなって思うんですよね。
それ思い出しただけで死ねるよって思うの?狂気的過ぎんだろ。
さっきの
力の無い愛する人の言葉を聞くたびに、俺はね、死ねるよって思うのさ
楽園 - anymori
は、家族でも恋人でも友人でもとにかく一個人に向けられたメッセージに思えるのに対して今度は不特定多数に向けられたメッセージ。
まじで慈悲深さカンストしてんやん。
仲間大人数との思い出おもいだしてセンチメンタルに浸るまでならわかるけど、そっから死ねるよってなるのはちょっと慈悲深すぎ。慈悲深い以外の言葉もうちょっと教えてもらえばよかった。
あ、・・・そっか。・・・楽園か。楽園なんだここは。。
と僕の頭はオーバーヒート。僕の思春期はandymoriに犯されたのでした。
Peace
大好きなCDをかけてあのころに帰ろう
まだ恐れも知らなかった無邪気なあの頃に
恋人よあなたの事を愛さない日はない
明日も百年後も好きだよ好きだよ
Peace - anymori
エモいね。まったくエモい。恋人への愛を歌うのに「明日も百年後も好きだ」なんて陳腐な言葉に聞こえるけど、このメロディーに乗るから言葉が活きてくる。
恋人よあなたの事を愛さない日はない。かっこいいね~。くぅ~。かっこいいじゃん。
実はここまではホント普通な歌詞。狂気さは感じられないと思うんですけど次からが肝心
母さん あなたの輝きを僕は忘れないよ
父さん あなたの悲しみを僕は知りたいのです
友よ ただ君の為のぼくでありたかったんだ
君のように美しく 在りたかったんだ
Peace - anymori
どう?父さんと母さん気にならない?
父さんと母さん何者なんだよって。なんとなく母さんが輝くのはわかるけど父さんの悲しみってなんだよって。
でもその悲しみを推し量って父さんを慈しんでるんですよねきっと。まったく小山田さんは次元が違いすぎんよ。
それでその次なんだっけ?
友よ、ただ君の為の僕で在りたかったんだ?君のように美しく在りたかったんだ?
もう狂気だよ。狂気のマッドサイエンティストだよ。
「友達の為に、そして友達のような美しさで在りたかった」
どんな友達なのかかなり気になるところではある。きっと僕ら世間一般の人間の周りにはいない人種なんだろうなと想像を膨らますこともできるがこれはきっとそういう意味じゃない。
これはきっと小山田さんの感受性アンテナがビンビンに冴え渡った故に芽生えてしまった感情、いや感情を通り越したエネルギー体みたいなモノだと思われる。
先程の父さんに対しての慈しみから察するに、小山田さんは周囲半径2kmに渡って自分の思考があらゆる人の脳内に伝わってしまうサトラレの逆バージョンなんだと思われる。
周囲の人間の言動1つ1つに敏感に反応してしまう精神的敏感肌の持ち主なんだと思う。
そして最後にこう続く
弟よ 二人でじゃれた日々が懐かしいんだ
姉さん 会いたいよ いつでも想ってるよ
Peace - anymori
まず弟と姉さんがいたことに驚く。大家族だなと。
ここにきてまさかの平々凡々な歌詞、なように思うが実のところはまったく全然違う。
実は小山田さんのお姉さんは亡くなっている。アルゼンチンにて交通事故に遭い亡くなってしまったらしい。
お姉さんは小山田咲子さんという方で、本を出版していたり様々な活動をされていた。
咲子さんの本の文章の一部はネットにも出ているので見てみるといいが、非常に文才豊かなことが感じられる。壮平さんと同じ血が流れているのだなとしみじみ思う。
話を戻すと、この歌は結論、
お姉さんへの愛を語っていた歌だった。
それをふまえたうえで歌詞を見返してみるとどうだろうか。
僕には尽きることの無い愛情を果てるまで語り尽くして与えようとしているように感じる。そして最後にお姉さんに会いたいよ、と。
満足に会えず、言葉もかけられずに旅立ってしまったお姉さんの事を想いながら、今度は自分が生きてる限り愛すべき人に目いっぱい愛を与えると決断した歌詞なようにも思う。
その証拠にこの曲のサビは全て
本当の心 本当の気持ち 本当の心 本当の気持ち
Peace - anymori
と繰り返し繰り返し歌われる構成になっている。
最後には絶叫するかのようにこのサビを歌い上げる小山田さんの声はどこか寂しげだけどやっぱり力強く感じる。
小山田さんからはワードセンスだけじゃなく曲への魂の込め方にも非凡な才を感じさせるのだ。
ここまで愛されたら愛し返すしかないじゃないか。好意の返報性に基づいて僕も小山田さんの事愛しますよ、とならざるを得ない。
実際ここまで知略を巡らせているとしたらビジネスパーソンとしても超一流。小山田さんは現代を生きる最強の音楽ソルジャーなのかもしれない。
ダンス
固い約束を交わした君の死に顔に出会う日に
ひとすじのほほ笑みを君に残せるように
ダンス - anymori
どうですか。早速狂気的でしょう。
「固い約束を交わした君」がもう死に顔になってる時点で頭はハテナマークでしょう。
普通の人ならここで「???」でしょうが、小山田さんの曲を聴き過ぎた僕なら聞き取ることが可能です。
まず固い約束をしてた君が亡くなってしまったんです。悲しいですよね。
そしてお葬式にてその方の死に顔を初めて見たんです。悲しさが溢れました。そこで小山田さんは泣いて泣いて泣きじゃくったのです。
ですが後日小山田さんは「あの場面で君に微笑んでいれば君もまだ救われたのではないか...」と感じ、詞の最後に「残せるように・・・」と締めくくっているのです。
以上小山田さんの曲を聴き過ぎた過激派による解釈です。
てかこれ曲を聞き過ぎたリスナー側が狂気的になりつつありますね。
インナージャーニー
この曲は、小山田さんの「あぁ...ッ」という喘ぎ声から始まる歌なのだけど、やたら深い。
まず曲名の「インナージャーニー」は内側の旅人的な意味だと思う。
肝心の狂気的なワード部分がこちら
目を閉じて 僕はいなくなるんだ
ただ風の音を聞くだけの行為になるんだ
旅に出よう 頭、ハート、へそへと降りて行こう
インナージャーニー - anymori
小山田さんは瞑想が好きなんで、「目を閉じて僕はいなくなるんだ」は理解できる。
きっと世界の一部に溶け込んで無我の境地に達しようとしているのだと伺える。問題は次だ。
「ただ風の音を聞くだけの行為になるんだ」
これだ。なんだか違和感を感じる文章である。それはなぜか。
それは、動詞が名詞として使われているからだ。
上記の歌詞の正しい文法は、
「風の音を聞くだけの行為をするんだ」
が正しい。
しかし、行為という動詞が名詞に置き換わり、「行為」になってしまっている。「風の音を聞くだけの行為」という存在になっているのだ。
なんという驚きの表現方法だろうか。
きっと小山田さんはインナージャーニー(瞑想)をする上で自分の中を「風の音」で100%一杯にする必要があった。
ただ瞑想をする上で『風の音だけを聞く者』になるだけではいくら「風の音」だけを聞き分けようしても、体に宿る五感が「風の音以外」をどうしても感じてしまう。
そこで小山田さんは、動詞を名詞に置き換えることで100%それしか聞こえない存在にまで自分を溶かした。風の音という限定された物質を聞く『行為』になった。もはや存在を捨て概念になったのだ。
つまり小山田流瞑想には風の音が必要不可欠だし、心地よいということなのだ。
続いてその『行為』は旅に出ると言い残し、頭⇒ハート⇒へそ、へと降りて行くのだ。なんだその人気の無さそうなルートは。
それにしても存在を超えて概念になろうとするあたり、またそれを詞的に表現するあたり、小山田さんは本当にセンスあるわ。
おわりに
本当はあと10曲くらい紹介したかったけど疲れたのでまた今度にします。
まとめると
小山田さんは狂気的に見えるけど本当はすごく繊細。
吹けば消えてしまうろうそくの火のような儚い存在。
しかも自らフーっと息を吹いて消してしまいそうな危うさも内包してる。
だけど最高にカッコいい!そんなひと!
それではまた!